5章 聖書の翻訳と教義 教義とは、ある特定の宗派や教団によって真理として公認された教えのことで あり、教理またはドグマともいう。通常のキリスト教(主としてプロテスタン ト諸教会)の場合は原則として、教義を作るときには聖書以外のものは用いな いということになっている。(モルモン経を有するモルモン教会や統一原理を 教える統一教会は例外である。)
約1900年前、「救い主はイエス・キリストです。悔い改めてバプテスマを受け なさい」という非常にシンプルな音信から始まったキリスト教は、その後、 次々と教理を増し加え、今日では膨大な教義体系を有するようになった。その 中には聖書外典やまったく別の経典から作られたものもあるので、そのすべて に聖書的根拠があると唱えられているわけではない。しかし、ほとんどの教義 には、それなりの聖書的な根拠があると主張されている。
聖書的根拠があると主張されている教義を聖書翻訳との関連から分類してみる と、大体次のように大別することができる。
どの翻訳の聖書を使っても論証可能な教理 特定の聖書でないと証明することの難しい教理 どの聖書を使っても良いということは、言い換えれば、翻訳にそれほど違いが ないということであるが、また好きなように解釈できるということでもある。 したがって、これは純粋に解釈の仕方の問題になる。聖句に対する視点を変え ると、それなりの論理を組むことができるもので、復活、神の王国、三位一 体、終わりの日、キリストの再臨など主要教理と言われるもののほとんどはこ の項目に入る。
例えば、次のような聖句があったとする。
「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30) これは、「一つである」というところに注目すると、キリストと父とは一つな のだから三位一体を教える聖句だということになるし、「わたしと父」に注目 すれば、二人しか出てこないのだから二位であって三位ではないという具合に なる。
もう一つ「魂」に関する聖句を。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐 れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅 ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28新改訳) この聖句からは、まったく相反する二つの異なった結論を導き出すことができ る。「キリストは、人は体を殺しても魂を殺すことはできないと述べている、 ゆえに、人間は人が殺すことのできない魂を持つという意味で、不滅の魂を有 する」というのが一つ。そしてもう一つは、「神は魂も体も共に滅ぼすことが できると言っているのだから、そもそも不滅の魂などというものはありうるは ずがない」である。要するに解釈の視点の問題であるが、その視点は解釈する 本人が正当化したいと考えている教義によって決定されることになる。
さて、次は特定の聖書でないとダメな教理であるが、それはなぜかと言えば、 ある特定の用語がその教義を論証するカギになるからである。もし別の聖書を 使えば、先に教理を設定しなければならなくなる。
「神の名はエホバである」という教えは、エホバを使っている聖書であれば、 「ここにこのように出ています」と簡単にその根拠を示すことができる。しか し、エホバを使わず、すべて「主」や「神」になっていたり、別の呼び方ヤー ウェやヤーヴェを用いていれば、先に神の名はエホバであるという教理を確立 しなければならなくなる。
「キリストは十字架ではなく一本の杭の上で死んだ」とか「聖書に地獄の教え はない」というような教理もこの項目に入る。
以上二つの分類について考えてきたが、これはもちろん、ものみの塔協会以外 の教理にもそのまま当てはまる。ものみの塔協会の教理だけが例外で、絶対的 な聖書的根拠を有するなどということはない。すべての教義は、解釈の視点に 依存しているか、新世界訳に依存しているかのどちらかである。
新世界訳は字義訳なので、ものみの塔協会の教理には、字義訳ならではの教 理、字義訳主義でなければ作れないような教理がある。その背景を検討してみ ると、いかにも字義訳主義らしい教理の作り方が浮かび上がってくる。
以下そうした事例を幾つか取り上げ、最後に聖書翻訳の根底に潜む問題を考慮 したいと思う。新世界訳の場合、教義との関連は字義訳の問題に集約して考え ることができるし、さらに聖書の翻訳と教義の関係は極めて本質的な問題をは らんでいるからである。
(1)エノクとパウロの不思議な関係 創世記5章24節はエノクの最後について次のように記している。
「こうしてエノクは〔まことの〕神と共に歩み続け、その のちいなくなった。神が彼を取られたからである」 ヘブライ人の手紙はこの出来事について、
「信仰によって、エノクは死を見ないように移され、神が 彼を移されたので、彼はどこにも見いだされなくなりました。彼は、移される 前に、神を十分に喜ばせたと証されたのです。」(11:5) と説明している。
また、コリント人への第二の手紙12章には使徒パウロの特異な体験が記されて いる。
「2 わたしはキリストと結ばれたひとりの人を知っています。その人は十四 年前に−それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てで あったかどうかも知りません。神が知っておられます−そのような者として第 三の天に連れ去られました。 4 その人はパラダイスに連れ去られ、人が話すことを許されず、口に出すこ とのできない言葉を聞いたのです」 このエノクとパウロの経験したことについて1987年1月15日号は次のようなコ メントを載せている。
「『信仰によって、エノクは死を見ないように移され( た)』のです。同様に、パウロもクリスチャン会衆の将来の霊的パラダイスの 幻を与えられたためと思われますが、移されました。つまり『パラダイスに連 れ去られ』ました。(コリント第二12:14)そうすると、エホバが敵の手が届 かないようにエノクを死の眠りにつかせたとき、エノクも、来るべき地上のパ ラダイスの幻を見ていたのかもしれません。」(p.12、8節) パウロはパラダイスを見た。同じように、エノクもパラダイスを見ていたに違 いない。このように述べる根拠はたった一つしかない。「移された、連れ去ら れた」という動詞一語である。エノクは「移された(transferred)」同様に使 徒パウロも「移された(transferred)あるいは、連れ去られた(caught away)」 ので、パウロ同様エノクもパラダイスを見ていたに違いないという論議の組み 立て方である。
70人訳が創世記5:24で用いているギリシャ語動詞はヘブライ11:5に対応してい るが、ギリシャ語本文の方は、コリント第二12:2,4とヘブライ11:5で全く同 じ動詞を使っているわけではない。同意語、同義語が用いられているにすぎな い。
実際のところ日本語で考えてみても、「連れ去られた、移された、運ばれてい った、取り去られた」といったところで、多少のニュアンスの違いこそあれ、 意味はそんなに大きく変わるわけではない。だいたい同じような内容を指して いる。しかし、たとえそうではあっても、「同じような動詞が使われているか ら同じようなことを経験していたに違いない」と考えるかというと、まず普通 はそう単純には考えないと思う。字義訳に対する信仰のようなものがなけれ ば、これは無理な論理であろう。
動詞一語で論理を組み立てる、いかにも字義訳らしい、字義訳主義的だと感じ させられる。ここまでくると、もうほとんど字義病ではないかと思う。
(2)ミカエルは二度立ち上がる 聖書の中で名前の上げられている天使は二人だけである。一人はマリアにイエ スの受胎を告げに来たガブリエル、そしてもう一人は天使長ミカエルである。 このミカエルが誰であるかについては意見が分かれている。
聖書外典のトビト書12章15節には、
「わたしは、主の栄光のみ前にはべり、奉仕する、7人の 天使のひとり、ラファエルです」 と記されている。それで、ミカエルとはこのラファエルやガブリエル同様、神 の前で特別な奉仕をする7天使の一人ではないかというわけである。バビロン 補囚後のユダヤ人が天使論を展開したときにはこのように考えたという。
モルモン教会は、ミカエルとは後代の啓示によって霊界に戻ったアダムである ことが明らかになったと述べているが、ものみの塔協会は、ミカエルとロゴ ス、イエス・キリストは同一人物であると説明している。
神の救いを待ち望む人々にとって、ミカエルは非常に重要な存在である。世界 の裁きとなる大艱難のとき、神の民を救うのはほかならぬミカエルであるとダ ニエル書12章1節は預言しているからである。
「そして、その時に、あなたの民の子らのために立つ大い なる君ミカエルが立ち上がる。そして、国民が生じて以来その時まで臨んだこ とのない苦難の時が必ず臨む。しかしその時、あなたの民、すなわち書に記さ れているものはみな逃れ出る」 読むと明らかなように、ミカエルが立ち上がるのと苦難の時が臨むのは同じ時 になる。苦難の時とはマタイ24章21節の「大艱難」に相当すると考えられてい るので、ミカエルが立ち上がる時は同時に大艱難の時でもある。そこで問題は これが「いつ」になるかということであるが、「御心が地になるように」とい う本はその点について、
「『その時ミカエルが立ち上がります』。この意味は何で すか。ミカエルが天で王になる、という意味です。ダニエル書11章の中では、 『立ち上がる』という言葉は、しばしば力を取り、王として支配し始めること を意味しています。『ペルシャになお三人の王が立ち上がるでしょう…力のあ るひとりの王が立ち上がって支配するでしょう。…しかし彼女の根の芽のひと つは、彼の代わりに立ち上がるでしょう…彼に代わって立ち上がる者は、租税 を取り立てるものを栄光の国につかわすでしょう…彼の代わりに卑しむべき者 が立ち上がるでしょう。彼には国の尊厳が与えられなかった」。(ダニエル 11:2,3,7,20,21また8:22,23ユダヤ人出版教会(ママ)訳)ミカエルは、 北の王の最終的な年月中、つまり『その時に』天で王として支配し始めます。 その時は西暦1914年であると、神は指定しました。」(p.309、310) と述べている。
ミカエルが立ち上がったのは1914年であると説明しているわけだが、そうする と、大艱難が始まったのも1914年ということになってしまう。現在だとこれは 完全に矛盾することになるが、この「御心」の本が出された当時はまったく問 題がなかった。というのは、この頃は1914年からすでに大艱難は始まっている と考えていたからである。
ところがやがて大艱難に関する教義が変更されることになる。1914年に始まっ たのは一世代の長さを持つ「終わりの日」であって大艱難ではない。大艱難と は終わりの日の最終部分を指す。それは大いなるバビロン(偽りの宗教−もの みの塔協会によれば自分たち以外は皆偽りの宗教)の滅びによって始まり、ハ ルマゲドンの戦いで終わるごく限られた期間の出来事をいう。大艱難が全世界 を襲うのはまだ将来のことである。
このように大艱難に関する教義を変えてしまうと、困った問題が一つ生じてく る。ミカエルはすでに何十年も前に立ち上がったのに、大艱難は一向に始まら ないということである。ミカエルが立ち上がったとされる1914年からもう70年 以上が過ぎ去ってしまった。
この「時」のズレをどうするかという問題に、ものみの塔協会が初めて答えた のは1986年の地域大会であった。北海道で開かれた大会のテープを聞いてみる と、「封印を解かれた神聖な奥義は、平和の確かな希望を与える」というプロ グラムの中で、「ミカエルが立ち上がったのは『1914年』ではありません」と 講演者は確かにはっきり宣言しているようなのだが…
教理が調整されるこうしたプログラムは、必ずものみの塔誌に載せられるのが 慣例になっている。なかなか出てこないな、どうしたんだろうと思っている と、ついに、1987年7月1日号に登場した。遅れたわけが分かった。「御心」の 本と大会の宣言の調整を図っていたのである。
今まで述べてきた見解を変えるのは、やはりまずいと考え直したようである。 7/1号はものみの塔協会の苦労が忍ばれるような記事である。「ミカエルが 立ち上がったのは1914年です」という見解と、「ミカエルが立ち上がったのは 1914年ではありません」という宣言の両方の顔を立てようというのである。
それにしてもこういう調整の仕方は本当にものみの塔協会らしいと思う。調整 したなどとは一言も述べてない。いかにも新しい啓示がありましたとうような スタイルを取っている。しかも多くの人の記憶が薄れてくるような時期にさり げなく変えているのである。
以下は少々長いが7月1日号からの引用である。
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