2012年5月7日月曜日

1155号


2008210日(1155号)

弱さを嘆くまい

 

5…しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。

6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。

7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。

8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。

9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

(コリント後書12章4節〜10節)

 

 「おんな子ども」と言う。弱い者、価値の低い者の意である。その意味では誰もそのような者にはなりたくない。また誰もが、弱さや侮辱や窮乏や迫害の中に置かれることを喜ばないであろう。もしその様な所に放り込まれたら、大いに嘆き悲しむのが人情である。裏を返せば、人が喜ぶのはその逆である。すなわち、強さや栄誉や豊かさや解放を求め、それを手にすることを喜ぶ。しかし、パウロは「弱さを誇る」と言い、「弱さと侮辱と窮乏と迫害と束縛の中にあることを喜ぶ。なぜなら、弱い時、そのときこそ、私は強いからである」と言う。彼は何故そのように言うのだろうか。

 

甲状腺癌で歌声を失ったテノール歌手(ベー・チェチョル)


バーミツバーを準備する方法

 キーを叩く手を休めてテレビを見ていたら、甲状腺癌で歌声を失った韓国人テノール歌手(ベー・チェチョル)のドキュメンタリーをやっていた。彼は彗星のように現れた世界的テノール歌手で、将来を大いに嘱望されていたという。ところが癌を患い、手術を余儀なくされた。その結果、「歌は二度と歌えない」と医者に宣告される。しかし、日本人音楽プロデューサー輪嶋氏のお陰で、日本人医師の手術を受け、かすれが治り、高音も出るようになる。しかし、横隔膜の筋肉が切断されているので、十分に声が出ない状態で、なかなかリハビリもはかどらない状態であった。そのとき、彼を支えたのが讃美歌であった。彼は在ドイツ韓国人教会で歌うようになり、次第に歌声を取り戻して行った。初めて教会の会衆で歌 ったときの声を聞いた輪嶋氏の言葉が強く私の胸を打った。彼がこういう意味のことを言ったからである。「彼は大変な目にあった。だけど、それがあったからこそ、彼の音楽の幹は更に太くなった。神がそれを与えたように思うのです」と。

 それを聞いて、ここに「弱い時こそ強い」という実例があると感じて、私は感動した。声楽家として、甲状腺癌は死の宣告に等しく、弱さの極致である。さすがに、それを喜ぶところまでは行かなかったが、人は最も弱い時、最も強くされるという実例を見る思いであった。

 

死の希望

 以下は、私の発信メールからの引用。

皆さん


どのようにgodescalcを発音するのですか?

今午前3時30分です。「死の希望」をもう一つ見つけましたのでご報告申し上げます。実は、「弱さを嘆くまい」というメッセージを書きかけて、あるテレビを見ているうちに見入ってしまいました。韓国人テノール歌手の話です。見終わったのが12時ちかくでした。それからしばらくして寝たのですが、目を覚ましたら、いきなり主に示されたのです。まず、その書きかけの原稿をコピーします。……ここまで書いて、寝たのです。そして、起きて顔を洗っているうちに、この話は八さん(牧歌朱筆)にも言えると思ったのです。牧歌の編集後記にある…(山本)編集長の言を思い出したからです。3年前脳梗塞に倒れ、そのときは「主よ、どうしてですか」と思ったが、今は編集後記も朱筆の手に返す所存� �伺ったからです。まさに弱いときが最も強く、弱い時こそ、主の恵みは満ちあふれるのです。このほかにも弱い時に最も強くされた実例は私たちの周りに多くあります。竹川さん、織田さんがそうでした。そうなんです。人間が一番弱いのは死ぬときです。そのときこそ主にある福音の人は一番強いのだと示されたのです。死は復活の希望なのですから、どうして死を嘆くことがあるでしょうか……

 

誇る者は主を誇れ!

 パウロが「誇る者は主を誇れ」(Uコリント10:17,18)と言ったのは、自己推薦の愚を犯したくなかったからである。

わたしが少しばかり愚かなことを言うのを、どうか、忍んでほしい。もちろん忍んでくれるのだ。わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。(Uコリント11:1〜4)


イエスが来た理由?

 自分で自分を推薦する者たちは、コリントのエクレシア(教会)に忍び込んできて、「(パウロたちが)宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え」た。その結果、コリントの人々は「違った霊を受け、…受けいれたことのない違った福音を聞く」羽目になった。パウロは、自分はそのようなことはしないと言いたかったのではないか。

 自己推薦をする者たちは、今日の選挙の候補者たちのように、自分の強いところ、すなわち、誇りとするところを語るのが常である。彼らが誇っていたのは何であったか。それは、ヘブライ人であってしかも「キリストの僕」であるということであった。そして、キリストのゆえに多くの苦難に遭ったことも誇らしげに語られたのである。苦難の数を誇ることはパウロらしくないが、それを承知の上で、彼はそれを誇って見せた。なぜなら、そうすることによって、「わたし(パウロ)たちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者どもから、その機会を断ち切ってしまうため」(同11:12)である。

 しかし、それは彼の本意ではなかった。彼の本意は、あくまでも主を誇ることであった。では何故、「自分の弱さを誇ろう」(同11:30)と言ったのであろうか。それは、自分の弱さを誇ることは、(自分の弱さの中に強さを注入してくださる)主を誇ることだからである

 

弱いからこそ強い

 『勝鬘経義疏』を著したのは勝鬘夫人である。勝鬘とは、幸福の花飾りという意味であり、「この世の人びとが七つの宝で、その肉体を美しく飾るもの」であった。(『日本の名著・聖徳太子』中央公論社・91頁下段より引用)

この経の正式の名称は、『勝鬘獅子吼一乗大方便方広経』である。獅子吼の意味は、1151号にあるように、「獅子がほえると百獣がおそれおののいてかくれふすように、仏の説法で悪魔や外道が降伏すること」(漢語林)である。獅子吼(ししく)は美しい婦人には似合わない。仏は何故夫人に、獅子吼を許されたのであろうか。私は先にこう述べている。


 「…結婚した女性には、実生活の中に、理想を追い求める特性が備わっているような気がするのです。釈迦は、それを見抜いて、彼女に『獅子吼(ししく)』を許したのではないでしょうか。世俗の中に仏道の理想を追求し、それを実現するには、結婚した女性にしくはないと。」

 今回はこれに、女性が弱いからこそ仏はこれを認められたのだということを追加したい。ということは、もし勝鬘が男性なら獅子吼を許されなかったということである。では何故男性はダメなのか。それは自惚れが強いからである。その点、婦人には初めから「弱い」という自覚が自他共にあるから、その恐れは格段に少なかったのではないだろうか。

夫人が誓戒(十大受章)を立て終わったとき、「人びとの中で『夫人は女性であるから、誓戒を守る決意は弱いであろう。それなのに、いま受けようとする誓戒は、きわめて重くかつ深遠なものである。おそらくは、口でいうことと実際の行いとが一致しないのではあるまいか』という疑念が生じた」(同113頁下段)のだと言う。だからこそ夫人は、その疑いを断つことによって誓戒を完全に身に受けたのである。女性は弱いからこそ強いということを、釈迦は知っておられたのではあるまいか。

 

幼な子のようにならなければ

 テレビアニメ「それいけアンパンマン」のキャラクターに「赤ちゃんマン」がいる。作者のやなせたかし氏によると、赤ちゃんマンがいちばん強いのだという。なぜなら、どんなに強い人でも赤ちゃんには勝てないからである。赤ちゃんもまた、弱いから強いのである。

めぐみ園の図書の中に「おにとあかんぼう」という絵本がある。粗筋は、こうである。


山奥の岩穴にひとりで住んでいた鬼が、人恋しさに村里に出て行くと、村人は怖がってみんな逃げてしまう。鬼はそんなことを繰り返しているうちに次第に腹が立ってきて、暴れだし、手当たり次第に物を放り投げ、家を壊し始める。村はずれの家に押し入ったとき、赤ん坊がひとり眠っていた。「ようし、赤ん坊から食うてやる」と「ガバッ」と口を開けた。ところが、目を覚ました赤ん坊が「ニコッ」と笑ったのを見て、「俺が怖くないのか」と牙を剥き出すが、赤ん坊は「ケケケッ」と笑うばかり。鬼は、そのあまりの可愛さに思わずあやしてしまうという話である。この赤ん坊を強くしているのは誰あろう神である。神は、幼な子のように、己を低くする者を強くしてくださるのである。イエスの言葉を聞くがよい。

…幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ18:3〜4)

                 



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