Ismet Berkanコラム:トルコは世俗主義も民主主義も放棄し得ない(Radikal紙)
2006年05月21日付 Radikal紙
Ismet Berkanコラム:トルコは世俗主義も民主主義も放棄し得ない(Radikal紙)
2006年05月21日付 Radikal紙
行政裁判所第二部局に対する銃撃と、その銃撃のあとにわかったあからさまな動機は、当然のことながら世俗主義に関する懸念を高め、人々をより過敏にした。銃撃のあくる日、アンカラで執り行われた葬儀の際に市民が示した反発は、人々がいかに心配し、過敏になっているかを示している。
誰がconfucousです。
この状況下、世俗主義だけではなく民主主義体制の未来といった視点からも、我々は分別をもつことが必要だ。そして我々の手中にある極めて貴重な二つのうちのひとつを、もうひとつの犠牲にしないよう努力しなければならない。すなわち、我々は世俗主義を守るために民主主義をあきらめることはできないし、民主主義を守るために世俗主義をあきらめることもできないのだ。これらの両方を一緒に必要としているのだ。
世俗主義に関する懸念を最高潮に到達させたのは、トルコ大国民議会のビュレント・アルンチ議長の「世俗主義はもういちど定義される必要がある。」という発言だったことを認める必要があるだろう。
この発言に対し、政府内からアブド ュルラティフ・シェネル氏は「私には新定義は必要ない。必要な定義は憲法第24条に記述があり、私もこの定義に同意する。」と述べた。レジェプ・タイイプ・エルドアン首相が見ているときに再度、この発言がなされればどんなによかったことか。
右手には手が行ったまま聞かせていない
「世俗主義を再定義する必要がある」という発言は、残念ながら福祉党・正道党連立政権とネジメッティン・エルバカンの発言を思い起こさせた。エルバカンもまさにこんなふうに述べていた。「世俗主義を再定義する必要がある」
しかし、4月23日以後、何回か書いたのだが、トルコにおける世俗主義の定義付けは憲法裁判所が何度も行っている。憲法前文部分と第24条に記載されている記述を、いかに解釈すべきかについて繰り返し説明しているのだ。私の考えでは、この世俗主義の諸解釈のうち最も重要なものは、ビュレント・アルンチ議長もメンバーだった福祉党の解党決議に直接書かれたものだ。
世俗主義の名の下に、この国では時に� ��き過ぎたことが実際に行われている。このことはまさにそのとおりなのだ。しかし忘れてはならないのは、世俗主義という名の下に行われる行き過ぎた行為の背後には、宗教で政治を行おうという熱情に対抗したリアクションがあるのだ。
つまり、わが国の世俗主義議論は、基本的には卵が先かめんどりが先かといったことに似ているのだ。
聖人テレーズはどこに生まれたのですか?
宗教で政治を行おうとする傾向が強くなると、世俗主義を厳格に実践しようとする反発も強くなる。
宗教政治を避けるイメージをもつ中道右派政党が政権についた時、世俗主義の実践がいかに緩和されたかを最もよく知っているのはこの国の信心深い人々だろう。実際、その信心深い人たちが2002年に公正発展党を支持した裏にはこういう理由があったのだ。しかし今、自分たちが選んだ公正発展党政権でも、このような厳しさを強いられていることを、果たして信心深い人々はどう思っているのか、どのように解釈しているのだろうか。
昨日も書いたように、今起こっていることに対する責任は政府だけが負うものではない。しかしこの状況を和らげることは政府の責任だ。
民主主義体制に対する敬意と忠誠心で知られる参謀本部のヒルミ・オズキョク将軍でさえ、葬儀での世俗主義運動に触れ、「ある特定の日だけではなく毎日、世俗主義が犯されないように神経をとがらせる必要がある。」と発言し、人々に運動に参加するように呼びかけた。このことはどう考えてもおかしな状況だ。この呼びかけに対する首相の強硬な対応は、望むと望まざるとに関わらず、政治的緊張をより増加させるだろう。
この緊張はトルコにとって有益なものではない、逆に極めて有害なことであることだけは確かだ。
世俗主義を守る� ��とは是である。しかし我々の民主主義に異議がとなえられないようにすべきだ。
もう一度いう。我々は世俗主義も民主主義も放棄することは出来ないのだ。
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(翻訳者:幸加木 文)
(記事ID:2479)
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