愛する兄弟姉妹の皆様、
モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)は、「革命」(La Révolution)という小冊子の中で、革命の究極の目的は「地上において天主の建てた秩序を完全に破壊し尽くすこと、この世にサタンの完全な支配をもたらすこと」であるといい、従って「革命に反対して闘うことは、信仰の行為であり、第一の宗教的義務である」と言い、続けて「革命の原理」(les principes de 89)を説明します。
「社会の絶対的独立という革命の原理は、すべてのキリスト教的指導を今後一切拒否すると宣言し、自分自身だけに依存する。この原理は、自分の意志以外には法を持たず、天主が教えることも天主の教会によって禁止されていることも心配しない。主権者である人民の意志は、主権をもつ天主の御旨に取って代わり、啓示された真理は人間の法律によって足踏みにされ、カトリック的法は抜き取られて純粋な自然法に取って代わる。一言で言うと、イエズス・キリストの永遠の権利は、いわゆる人間の権利に取って代える、これがフランス革命の人権宣言の根底にある。」
モンシニョール・ド・セギュール(Mgr de Ségur)によると、革命の中核は「国家のカトリック教会からの独立」にあると言います。この「国家のカトリック教会からの独立」は「日の光に照らされているように明らか」に、教会の教義に対立するものであると。
男は宗教を必要としません
「様々な権力が高揚されることは、その最終目的に由来する。永遠の救霊こそは明らかにこの世の反映と言うことよりも上位の目的であるので、日の光を見るほど明らかに、教会は国家よりも上位の権力である。従って国家は、天主の権により(de droit divin)、教会の権力に従わせる厳格な義務を負っている。ところで天主の権によるものは不可変であり、いかなる地上の権力もこれを破壊することができない。・・・
天主の御旨を為すために、そして君主の義務を果たすために、キリスト教の君主たちは臣民の物質的幸福を与えるだけに満足してはならない。それでは唯物論である。またキリスト教の君主たちは教会の行動を妨害しないというだけで満足してはならない。それでは、善に対する無関心主義であり、誰にも許されない罪深い無関心である。キリスト教の君主たちは、カトリック教会にできるだけ効果的な助けを与えなければならない。キリスト教の君主たちは、教会の指導の下に、その忠実な下部として、臣下の信仰と道徳を悪化させるすべての躓きが起こらないようにできる限り妨害しなければならない。キリスト教の君主たちは、その言葉と影響力と富と、そして必要ならば、剣と軍隊を持って教会を助けなければならない。
そうすることにより、すべては秩序立つ。天主が最高の師として打ち立てた私たちの主イエズス・キリストは、天におけるだけでなく地においても、その聖なる教会によって、すべての人々を、すべての国々を、すべての家庭を全く統治することになる。
以上がカトリックの教義である。これが教会の公式の聖伝の教えである。この教えは、最近では1864年12月8日の回勅(クワンタ・クーラ)によって要約された。これに反対する教えは、聖座によって自然一本主義の名前の元に排斥されたのであり、そのような教えは革命の核心であり、フランス革命の原理である。」
モンシニョール・ド・セギュールは、たとえ悪意がなかったとしても、国家から教会を、教会から国家を分離させることを望む人々は「天主の確立した秩序を直接に犯すものであり、この重大な剣に関する教会の公式の教えを捨てるものである」と言います。
人はパンのみにて生きるにあらません。
「彼らは、革命家たちの退廃した見解に賛成していることを知っていない。教会を孤立させる、教会を少しずつ社会の外に押しやる、この世界に対する教会の影響力を弱くさせる、カタコンベで迫害を受けていたときと同じように教会を目に見えない力の状態に追いやる、世俗の権力をその富と教えによる知性と法による意志のこの地上における絶対の支配者として作り上げる、そうやってキリスト教の作り上げた偉大な社会的達成、権力の位階秩序的区別を無と化す。以上が、読み書きができる人々のために、革命が過去六十年以来ますます実現しようとしてきた支配的考えである。言い換えると、天主とそのキリストの統治に取って代わる、人間の 絶対的統治である。(C'est, en d'autres termes, la substitution du règne absolu de l'homme au règne de Dieu et de son Christ.)」
モンシニョール・ド・セギュールは、さらに続けて、「国家をカトリック教会から分離させること、これは社会を社会として背教させること」であり、これは「革命の本質それ自体である」と言います。
これこそが、聖パウロがテサロニケ人への第二の手紙の中で言う「大背教 discessio」です。この大背教は、1862年から大々的に始まり、それが現在では完成したと言ってよいでしょう。
【反論一】
私たちはもはや中世ではない。それは昔の話しだ。今ではそれは要求のしすぎだ。
【回答】
モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「私たちは要求しすぎているのではない。私たちは天主が私たちに望んでいることと人間が天主に与えなければならないこと、正しいこと、また私たちすべての霊魂を救うことができる唯一のことを求めているだけである。ここでは生きるか死ぬかの問題である、かつて【ローマの迫害時代に】異教かキリスト教かの問題だったのと同様に。教会と革命、キリストと悪魔、二つの原理は相互に排除しあっている。それ以外の選択肢はない。」
【反論二】
愛徳をもって接するべきだ。愛徳に欠けることを言うな。
【回答】
モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「はい、愛徳と優しさは罪人を改心させ、常に優しく愛徳に満ちていなければならない。しかし、原理の問題は、真理の問題であって、愛徳の問題ではない。真理のことについてはいかなる妥協もあり得ない。愛徳の社会である前にカトリック教会は真理の社会である。愛徳と真理とは相互に排除しあうことがない。真理を犠牲にするような愛徳はもはや愛徳ではない。それは弱さであり裏切りだ。
【反論三】
もっと賢明になるべきだ。慎重にものを言え。
エルサレムは神に属しているのでしょうか?
【回答】
モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「確かに。しかし真理を裏切っては決してならない。人々のシンパシー(好感)をもっと容易に得るためという口実で、真理も教会もキリストも裏切ってはならない。教会は決してこのような態度を取らなかった。使徒たちも、教皇たちも、諸聖人もこの偽りの賢明に頼ることは決してなかった。それ以外のことをしようとするキリスト者らは、明らかに間違いにおいてあることになる。もしも誠実さとその意向によって免除されていなかったとしたら、彼らは天主の御前に罪を犯したことになる。」
【反論四】
そんなことを言うとカトリック教会に反対してマスコミが叫ぶ。
【回答】
モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「人々は叫ぶことだろう。しかししばらくたつとそれも止むだろう。【今そうでなくとも】人々は叫んでいないだろうか。ジャーナリズムとは何か? 全ヨーロッパの政治とは何か? これらはもっとも劣悪なレッテルを貼った聖伝主義者たちに反対する恒久的な叫び以外のいったい何であろうか? これらの叫ぶ人々のまっただ中で私たちは声高くはっきりをものを言おう。私たちは口を閉ざすことが許されていないと思いだそう。聖パウロはこういう。Vae mihi, quia tacui! (私が口を閉ざしたのなら私にのろいあれ!)と。」
【反論五】
不可能だ。
【回答】
モンシニョール・ド・セギュールはここでは特にフランス人に向けて答えて言います。
「不可能という言葉はフランス語ではない、と言う。これは本当なのだろうか。それについて私はよくわからないが、私の知っていることは、その様なことを言うことはキリスト者にふさわしくない、ということだ。「人間に不可能なことも、天主には可能である。」 異教の世界は、皆の知っているとおりの世界なので、十二人のユダヤ人の漁夫がそのような世界を十字架の愚かさに回心させると言うことも、不可能だった、何重にも不可能なことだったのではないだろうか? 聖ペトロがローマ皇帝ネロの代わりにバチカンを取ってしまうことも不可能ではないだろうか? 教会の歴史は、多くの不可能が敗北し続けた歴史である。教会の歴史は、私たちの主イエズス・キリストの予言が継続的な成就である。"Et nihil impossibile erit vobis" あなたたちにとって何も不可能なことはないだろう(マテオ17:19)。もしも私が間違っていないなら、私たちの先祖が異教を清めたよりも、現代の世界を清める方がより少なく難しいだろう。私たちは同じ手段を使おう、同じ武器を取ろう。以前そうであったように信仰は今も凱旋するだろう。」
【反論六】
現状をよく考えろ。現代、民主主義は世界中に広がっている。教会が社会に自分の権利を行使することはできないというのは既成事実だ。
【回答】
モンシニョール・ド・セギュールは答えて言います。
「現代のように、端境期においては、人間は真理が必要である。特にすべての真理を必要としている。人間の情念によって真理は弱くされ捨てられてきている。Diminutae sunt veritates a filiis hominum [Ps 11:2]. 人の子らによって真理は縮小された。宗教生活、社会生活、政治生活、家庭生活の神聖な原理をすべてゆだねられた者として私たちはそれをこの世に示そう。この世はこれを知らなかったが故に死んでしまうから。あまりに人間的な賢明さはいらない。人間くさい賢明さはすべてを失わせる。Prudentia carnis mors est. 肉の賢明は死である(ローマ8:6)。私たちは賢明であろう、もちろん、しかしキリストにおいて賢明たろう。」
私たちはこの回答を聞き、ポール・ヴァレリ(Paul Valéry)の有名な言葉を思い出します。Nous autres, civilisations, nous savons maintenant que nous sommes mortelles. 「他の私たちも、文明として、私たちは死に絶えるべきものであると言うことを知っている」と。キリストのいない現代の西欧民主主義世界が、全地球上に行き渡りつつあるこの今、その終焉を迎え消滅の危機を迎えているように思われます。人間が老化し、文明は死を迎えるのですから、文明に若さと生命を与えつづけてきた真理を受け入れなければ。
モンシニョール・ド・セギュールは言います。
「世界史は、二つの軍を率いる頭の巨大な戦いである。一方は、キリストとその聖なるカトリック教会、他方ではサタンと、サタンが邪悪の道に引きずり込み反乱という呪いの旗の下に集ったすべての人々である。全歴史に渡るこの戦いは恐るべきものである。私たちはもっとも危険な戦いのフェーズ(段階)のただ中に生きている。・・・
この天主に反対する戦いにおいて、もしもあなたが革命に反対して天主の側にたたないなら、・・・革命の冒涜的野心を増加させ、その野蛮な希望を高揚させるだけである。あなたの弱さを強みとし、あなたを共犯者として、まだ十分ではない、あなたを自分の奴隷としてあなたを使い、革命はあなたをそのいとわしい事業の最終段階まで招集するだろう。あなたから� �を驚かせるような妥協を引き出した後、革命はあなたの良心を仮借でさいなますことをなおも要求するだろう。・・・
両者は近づきあうこともできない。いかなる同盟も結ぶこともできない。このことをよく覚えよ。革命がしなかったことは、革命はそれを憎む。革命が憎むことをすべて革命はそれを破壊する。」
主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、我らのために祈り給え!
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【参考文献】
L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME PREMIERPAR J. CRÉTINEAU-JOLY
L'ÉGLISE ROMAINE EN FACE DE LA REVOLUTION TOME SECONDPAR J. CRÉTINEAU-JOLY
La Révolution expliquée aux jeunes gensPar Mgr Louis-Gaston de Ségur
あるいは、
La Révolution expliquée aux jeunes gensPar Mgr Louis-Gaston de Ségur
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